昭和52年08月03日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
御教えを頂き違えるという事がございます。この御教えなんかも間違うと頂き違える場合があるんです信心に連れはいらぬ。だから誘い合うて等はいらぬという様な風に頂く向きがあるんです信心は銘々のものだから。信心に連れはいらぬと仰るのだから。もう誘い合うてんなんてんち言う事はいらぬように言う人があります。私は思うのにね本当に信心に連れはいらぬというのは、最後に日に日に生きるが信心なりと言われる。
日に日に生きるが信心だと分かるという、その辺の所が分らせて頂く時にもう本当の意のと、日に日に生きるが信心なりと言うのは、だから意味が反対になって来る感じですね。日に日に生きるが信心。昨日研修させて頂きます時にお話をした事ですけども。例えば、昨日の朝の御理解を頂いて、一言私は今日の御理解でここでおかげを頂いた。ははぁここん所が有難いと思うたと。
他ん所は忘れたけれども、ここだけは忘れられないと言った様な、その頂きどころと言うのは、その人その人によってまぁ違う。同じでなからなければならんという事はないですよね。けども矢張りお話をするからには説くからにはね。はぁ今日の御理解はここだと一つの芯を置いて、それをこうまぁお話をする。どうでもここだけは分かって欲しいと、こう思いながら話すという場合もありますから、そこん所があの分かっておると、話す者も頂く者も本当に有難い感じが致します。
けれども言うなら枝葉の所を分かっておる。その枝葉の所だからと言うて、ほんならおかげにならんというのではないですね。昨日ここの丁度親教会の大祭を頂いて帰ってみえた方達が、ここに一緒に研修にかたっておりましたから、その方達にも私が今日、あなた方の今朝の御理解を頂いて何所をどう頂いたかと言う事を一口ずつ、まぁ聞かせて頂いたんですけれども。銘々矢張り違うんですよ。それでそうやって聞き終わってから話したことですけれども。
これも私が福岡で修行中の時分に、春吉の教会にお話に行ったという事があったんですよ。岡部先生の所です。で丁度私行きましたら、ある婦人の方がお取次ぎを頂いておられた。難儀な問題で参ってきておる。まぁ当時はあそこは柳町ですかね。遊郭があった時分ですから、仲居さんか何かをしておられる人でした。それで岡部先生が本当に修行が大切だと言う事をまぁ色々お話しておられました。
久留米の初代の石橋先生は、冬でも言うならまぁ丹前一つで休まれたんですね。敷布団も敷かずに休まれたんです。それでもう寒中なんかは、もう冷えに冷えきっておる部屋で休むのですから。その御神酒を燗々とつけて、それでそれを一杯ぐっと引っ掛けといて、その御神酒の温もりのいきで休まれたという話をなさっておられました。そしたらその婦人の人が言われる事が、どういう事を言われるかと言うと、本当に寒か時に燗々つけてから、湯豆腐かなんかでやるなら良かですもんねち言うちから言われました。
はぁ私が後ろから聞きよってからね、本当に今も自分も難儀をしておられる、だからそれを修行と受けなさい。寒中にでもこう言う修行をしてる方達があるんですよと言う話をしておられるけん。それを修行と受けりゃ良かったんですけれども。その燗々というとこだけがぴんと頭に来たんですね。ですから本当その方でん燗々つけてから、湯豆腐か何かでやるなら良か事は良かですもんねち言うていわゆる頂き止め方なんですよ。
それで私昨日皆の一人ひとりの所を聞かせて頂いて、まぁそんな極端な頂き方じゃないけれども、はぁそういう枝葉の所だけしか頂いておらんのだなという風に、まぁ思うたのでございました。そしてなら私が昨日御理解を頂いて、こういう表現成程もうこれに極まるんだな実際は、金光様のご信心は、いや合楽理念の芯もここにあるんだなと思って話した事があるんです。で最後にその事を聞いて貰ったんですけれどね。
昨日私のお話の中に、自然界にはそれこそ億年かかってでも丸うせずにはおかんという働きがあると。それをもうまともに受け止められたのが、教祖生神金光大神様だと。いわゆる天地書附がそうである。おかげは和賀心にありと言うその御教え。これは言うなら仏教で言う因縁もキリスト教で言う罪も、この和賀心の前にはもうそれこそ霜に煮え湯をかけるが如きものだと。そしておかげは即刻ということを申しましたですね。だから合楽の信心がですね。
例えば今月まで合楽便りには奇跡のシリーズというのが、丁度一年間続きましたかね。けれどもこれからの合楽には奇跡という言葉はないんだと。それはもう当然の事なのだと。例えば目の見えない者がその場で目が開く。足の立たない者がその場で足が立つ。金銭のお繰り合わせを願った人が、その場で金銭のお繰り合わせが頂けれるというほどしのおかげを、今までははぁ奇跡的な不思議なおかげじゃあるとこうみんなが言うて来たけれども。信心の要の所がそうだもうこれに極まったんだと。
それを末永先生と宮崎の網さんの例をとりましたよね。もう一から十まで親先生。しかも親先生が言われる合楽理念のマスター、そしてそれの実行以外にはないと。とりわけ海外布教にはもうこれ以外にはないんだと言う思い込みです。網さんの場合は、金銭のお繰り合わせを、合楽におかげを頂いて二年あまり、もうそれこそいつの場合でもただ本当ではあるだろうかと思うような、真実性を欠くほどしの奇跡的なおかげを頂いてこられて。今度も纏まった金銭のお繰り合わせを頂かれて。
お礼に出てきてそして自分が神様へのお礼の、言うなら言葉の表現がない。私と会うた時にはもう一言も物が出ないんです感動されて。それでまぁそれで昨日読ませて頂いた様な、その「奥深く開ける御前は湧く泉、溢れるおかげ限りなし、永劫不滅合楽魂」とね。それで私は、合楽魂という事は、そのまま私は合楽理念と言う事だという風に聞いて頂いたんです。もうだからその合楽魂が本当に出来た時にです。
おかげはその場で頂けれるんだと。私共が生身を持っておりますし、同時にまた私共の心の中には、そうそのまぁ絶対とかという様な言葉は、実際は使われないというほどしに、あやふやな事がございます。けれども実際は頂けれるんだと。けれどもこちらがまだ芯不足の為に頂けないのだと言う頂き方をするより他にないです。もう合楽で信心をするなら、これを一つ覚えとけば良いのだと。
これにもう徹する以外にはないんだと。もう合楽理念以外をおいてはないのだと、末永先生が、言うならばその思い込みが愈々強うなっていく時にです。今ほんならブラジルで、あぁいうただ目を見張るばかりの御比礼を受けておる。もう合楽魂はここだと、これだと言う様なものを頂けた時にです、普通では奇跡というより他にないようなおかげを頂き、また現しておられる網さんの例をとって話しましたよね。そしていうならば天地自然、いわゆる自然界。
天地金乃神様という方は、それこそ億年かかってでも、一切を丸うせずにはおかん。ましてや人間の心を丸うせずにはおかんという働きがあっておるという事なんです。それをまともに受け止められたのが、教祖生神金光大神様だと。それを表現するならば天地書附である。「生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり」おかげは和賀心にあるんだと、和らいだ心、丸い心にあるんだと。それで昨日の私のお話を申しました中にです。天地が丸うせずにはおかんという働きがある。
それを人間氏子いわゆる私共がです、丸うならずにはおかんと言う腹が決まった時に、丸うならずにはおかん、丸うせずにはおかんというものが相寄る時に、いうならば今まで言ってきた奇跡という様なおかげは現れるんだという意味の事をお話しましたよ。私はここん所を皆が頂いておるだろうと思うたら、誰もそこん所を発表する者はなかったんです。自然界にはもう丸うせずにはおかんという働き。そこでほんなら私共小自然である所の私共。天地の親神様がとりわけ、人間氏子の幸せを願われる。
それは人間の心の中に和賀心が生まれてくる。和賀心になる事以外にはないのだと。で、億年かかっても丸うせずにはおかんという働きを、様々な角度から見せて下さる。それを、いうならば悟られたと言うか、真正面から受け止められた。それは初めからそうじゃなかったかも知れませんね。けれども段々信心をしてお出でられるうちにです。ほんなら、私が修行という事を様々な角度から、させて頂いたけれども、どれもこれもが本当ではないような事に思わねばおれない様な結果になっていくから。
よしこれからは私はもう私の上に起きてくる一切の問題をです。それが難儀な問題であろうが苦い事であろうが、甘い事であろうが、それをもう黙って合掌して受けて行くという事を、私の信心修行にしよう。私はそれがどのくらい大変なものか大事なものかと知らんなりにですその修行をしたんです。そして四年たち五年経たせて頂いておる時にです。はぁこれが天地の心だったと分かったんです。
だから恐らく教祖様もです。此の方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんという様な信心の中からです。あの天地書附は生まれたんだと思うのです。もう和賀心の前には一切の難儀が消滅するんだ消えるんだと。そらもう因縁だから仕方がない。あんたは、そういう時にもう生まれる前から作っておる罪というのが、いうなら原罪と説く訳です、キリスト教では。
原罪のある限りです、昨日の中にもカトリックのいわゆる神学を修めた人がです、勉強すれば勉強するほどとにかくもう、自殺をするより他には手はないという様な所まで追い詰められた人が、末永先生の所でいうならわざわざサンパウロからビリグイまで、教えを求めてやってきた。そして合楽理念を聞かせて頂いて、それこそびっくり仰天した。もう私が願い捜し求めておったのはこれだったと言うて。
そしてその合楽理念をもって、そこに奇跡を現しておる実際の姿を見て感動した訳です。だから言うならばです、天地の親神様が丸うせずにはおかん。そんなら信心を頂く者が丸うならずにはおかんと言う決心なんです。これはニコニコで受けたけれども、これはぶーっとして受けたじゃいかんという事です。一切が、神愛と分かってみれば分かってみるほどです、一切を合掌して受けて行くというもう生き方。
もう信心はこれに極まったんだと。昨日私が説いたそこん所はです、実は私は皆さんにも頂いて貰いたかった訳なんです。同じ様な話をしておる、何時もしておりますけれどもです。こういう表現は初めてでした。神様が丸うせずにはおかんと言うなら、こちらも丸うならずにはおかんと腹が決まった時なんです、おかげを受けるのは。そして人間ですから失敗もあるかも知れません。けれども失敗の所はお詫びをしてみて、またそれに取り組んで限りなしそれを行じていく。
昨日森部の高山さんがその研修の後にです。もう親先生あの合楽理念合楽理念と言われるから、聞いておるばっかりじゃったけれども、本気で取り組むという事は、見やすい事じゃございませんと言う。この頃竹内先生のお話を聞かせて頂いて、市長室でいうなら沢山の人に面接をしなければならんけれども。市長室に入ってくるその一人ひとりを私は拝みますというお話を聞かせて頂いて。今日からは私ももう人を拝むことにまぁ決めたと言う、あのお話を頂いて以来。
一切を拝むと言うてもです。人間万物の霊長神の氏子として見る訳です皆を。だからほんならお商売をさせて頂いておるそのお客さんがです、みんな神様に見えてくると。それこそ三波春雄じゃないけれども、お客様は神様だという。こういう生き方なんです。そこで勿論いちいち合掌したり柏手打ったりする訳じゃないけれども。心に合掌し心に柏手して拝ませて頂くという事を、もう本気で心掛けておりますけれども。もうとにかく迂闊にしておるとに驚きます。
合楽理念の心行とはそこが説いてある。合楽理念でもう表行を廃して表行を廃して、言うなら心行一本表行をしておったら、もう金光教的な金光教じゃないんだと最近は決め付けて私が言う。表行どんするごたるならもう例えば、弟子の中にそげんとがおるなら私は破門だと極端に言ってるんです。と言うほどしに金光教の信心の中には表行はもうあってはならないです。水をかぶったり断食をしたりという行は、あってはならないです。であったら他の何々教も何々宗も同じになるです。
こうやって一生懸命にお参りをする。それが修行でありもう当然の事として大祓信行神様が生き生きと、息づいて見えられる事の為に、大祓信行を一日でも欠かしちゃならないぞと。これを、修行といや修行でしょうけれども、それはもう御道の信心をさせて頂く者としては当然な事、今日の御理解で言うなら、日に日に生きるが信心なりと言うほどしの信心を分からせて頂くためにです。今私が言うた様な信心を本気で身に付けなければいけないという事なんです。
皆さん皆さんも昨日の御理解を頂いてそこまでは頂いてなかったと言うなら、今日もう一遍頂き直してですね。成程神様が丸うせずにはおかんと言われるなら、こっちも丸うならずにはおかんと言う、一つ気持ちにならねば嘘だという事をです分かって頂きたいという事であります。最後の所に日に日に生きるが信心という事は、もうこれは言うなら御道の信心させて頂く者の、まぁ言うなら最高の境地でしょう。
自分を愈々空しゅうして、自分というものを空しゅうして、今朝新たに生まれ変わったんだと言う様な信心なんですから。昨日の事が頭に残っとる。昨日あれからあげん言われたつが腹の立って応えんち言う様な事じゃ出けんのですから。だから日に日に更な信心が、そこから生まれてくる。言うなら毎日毎日が信心の誕生なんです。折角いうならば合楽理念は助かりの理念だと、それが歌い言葉だけではなくて本当にそれをそうだと実感する。昨日の朝も歯医者に参りました。
四時過ぎから起きて行きましたと。高山さんの話なんです。はよ行ってその番を取らにゃん。おかげ頂いて一番に着きましたと。それからもうもう行ったら直ぐ二番目の人が来る、三番目の人が来る。丁度十人あの待ってる間にまぁ自分の番になったとこう言うのです。そしてふっと気が付かせて頂いて、いや今日は自分が一番に来て、十人の人がみんなお早うございますと言うて入ってくるとに、一人も拝んでいなかったのにもうびっくりしましたと言うんですよ。
もうこれほど心に掛けておるごとあるけれどもです、もう十人が十人危ない事でだから改めて拝み直したと言っておられます。如何にも馬鹿んごたる話ですけれども、それが合楽理念なんですから。風呂に入ってタオルばこうする事、便所に行ってからトイレットペーパーばこうする事が、言うならばです。そうせずにはおられんという、その心が合楽理念なんですから。もうそげなこつはせんならせんでん良いが、心でちゃんと何時でん拝うどきゃ良かが。
それでは何時まで経っても信心は頂かれんです。しかもそれはなそうと思えば、子供でもなせるという信心なんです。ほんなら難しい所だけはほんなら出来たと。けどもその簡単な事が出来ない。その簡単な事からおかげが漏っておったと言うのが合楽言うなら永年の信心はそこだったと、気付かせて頂いておる今日なんです合楽では。だから大きな信心とは大きな信心勿論ですけれども、その大きい信心はもう小さい信心から始まるんだという事。合楽にも段々おかげを頂いて支部が出来てまいります。
合楽のいわば福岡支部、久留米支部、大分支部、宮崎支部、という様におかげを頂いて、そこには一つのまぁ言うなら信心の同志が集まって、信心の共励をし合う。その信心の共励をし合うと言う事だけではなくてあの協力し合う。言うならば今日の御理解とちょっと違うごとあるけれどもです。お互いがそれこそいざない合い、誘い合いお互い会員の中に、難儀な人困った人があるならば、その相談にでも乗ってでもやれるといった様な信心が必要だという事でございます。
先日ある支部長さんが電話を架けてきた。支部の中に大変今困っている人がある。何とか助ける手立てはないだろうかと、と言うて電話が架かってきました。そん時に私が頂きますのは、好きという字を書いて力を三つ頂く。協力の協と書く好きと言うのは、人間の事まぁ例えて言うとね、お月様が例えば満月の日を欺くような光を放たれるけれども。実を言うたら月そのものには光はないんだと。太陽の反射を受けてだから今日の御理解じゃないけれども、丸うなるという事なんです。
三日月さんぐらいな人には、三日月さんぐらいな、言うなら光しか頂けんのだと。心がもう腹立ちでもう、それこそ涙の出るごと腹の立っとる時でも暮れの闇ですから、光は全然ない暮れの闇です。お先真っ暗ちいう人は今、あなたの心の中にそれこそ三日月さんのようなものも無いという事になるんです。教祖は何時も満月のような心をと言うてある。そこには神様の光がそこに全部そこに当たるんです。だからそれこそ人間であってまるっきりあの方は神様の様な方じゃという事になる訳です。
丸い心の人です。そしていうなら太陽の光と同じように光を放つ事が出来るのです。その人の力人間そのものじゃないのです。ただ丸い心にならせて頂くという精進すると、そういうおかげが受けられるというのが、あの月のお知らせです。勿論力を三つという事は力を叶える力を合わせるという事なんです。だから今こういうお知らせを頂いたから、そこから一つおかげを頂かれたら良かろうという事であった。
本気でその事をよくは分からなかったけれども、とにかく力を三つ合わせると言う事だから、心に力を合わせる事だろうと思うて、まぁ言うならばその方の為に協力をさせて頂いた。あくる日お礼に出て見えてその事の御理解を頂いてから、はぁ自分のした事なした事は間違いじゃなかったと言うてお礼を言うておられます。これは支部だけの事じゃありません。例えばほんなら北野地区なら北野地区、土井地区なら土井地区善導寺地区なら善導寺地区、本当に自分達の信心の言うならばともがらなのですから。
あの人この頃ちっともこの頃お広前で会わんがどうしてござるじゃろうかと行ってみるぐらいな気持、話を聞いてあげるぐらいな気持。そしてさぁ明日からいっちょお参りしようじゃんのと言う様なものが、必要じゃないでしょうか。神様は信心に連れはいらぬと言われるから、もうそげんとはほうからけぇときゃ神ながらで良かがち、合楽の人はそういう事をよく言うですもんね。
神ながらじゃがと言う。これでは成程教え通りのごとあって実を言うたら、その教えのまひとつ向こうの奥にあるその心が分かっていないと言うより他にないです。今日私は信心に連れはいらんと言われるけども。実際は信心に連れはいると言う事を今日は聞いて頂いたんです。そしてぎりぎりの所日に日に生きるが信心なりと言うほどしの信心を、銘々が頂いた時には、もう連れも何もいるこっじゃない訳です。もう神様との連れ合いになるですから。神様と何時も一緒におれれるのですから。
ほっといても良いまたは誘う事も要らぬという事に、まぁなるのじゃないでしょうか。同時に、ほんなら昨日の御理解をもう一遍聞いて頂いて、本気で私共がですね。神様が丸うせずにはおかんという働きだけしかないのなら、こっちも丸うならずにはおかんと言う、私は一心発起が出来た時におかげは即決だと。そういう腹がもう決まったと神様がみそなわしました時にです、初めてそこに起きてくる大きなおかげを今までは奇跡と言ってきた。けれどもこれからの合楽にはもう奇跡という事はない。もう当然の事だとして頂いていきたいと思うですね。
どうぞ。